last-modified: 2018-07-21 (土) 21:05:21 (2117d)[変更箇所]
unit_description_texts_description_text_Inf_Line_Polish_Legion ポーランド人軍団は戦列歩兵部隊で、敵本隊に射撃を行ったり銃剣突撃を行えます。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Line_Provincial_Ottoman_Nizam_I_Cedit この兵士達は欧州式戦列歩兵の装備と教練を受けています。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Line_Prussian_Musketeers この種の戦列歩兵たちは敵本隊に銃撃を加え、銃剣突撃により圧迫する様に訓練されていますが、機動力と俊敏さは犠牲にされています。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Line_Russian_Moscow_Musketeers モスクワ銃兵は汎用性が高い戦列歩兵です。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Line_Russian_Musketeers マスケット銃兵は戦列歩兵で、着剣して攻撃したり、敵戦列に整然とした一斉射撃を行えます。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Line_Swiss_Foot この者たちは弾幕を放ち銃剣突撃によって前進することができます。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Melee_Ottoman_Cemaat_Janissaries これら剣を装備した兵士はプロの戦士で、1世紀前の伝統的な訓練の継承者です。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Militia_Austrian_Landesschutzen これらの兵士達はライフル銃で武装した民兵で、他の民兵部隊に対してとても効果的です。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Militia_French_National_Guard 国民衛兵隊はマスケット銃と銃剣で武装した民兵で、比較的安く徴集できます。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Militia_Militia 民兵は装備が貧弱で練度も低くなりがちですが、公共の秩序を保つには理想的です。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Militia_Ottoman_Libyan_Bedouin これらの民兵達は駐屯部隊として理想的で、砂漠地域で公共の秩序を保つ助けをできます。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Militia_Ottoman_Palestinian_Auxiliaries これらの兵士達は公共の秩序を保つ助けをする歩兵の民兵です。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Militia_Ottoman_Peasant_Levy これらの兵士達は農場から連れてこられて、おそらくマスケット銃を与えられ、そして敵の方向に向かって駆り立てられます。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Militia_Prussian_Landwehr ラントヴェールの兵士たちはマスケット銃と銃剣で武装しており、母国を守ることに長けています。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Mob_Armed_Citizenry 事態が悪化した時、人民は彼らの家と愛するものを怪物から守るために立ち上がります。強欲な外国の攻撃者め! False
unit_description_texts_description_text_Inf_Skirm_Austrian_Windbucshe_Jager これらの散兵達は隠密戦術の達人で、火打石銃の代わりに珍しいライフル銃身の空気銃で武装しています。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Skirm_British_Rifles 丈夫で高精度な施条式マスケットで武装したライフル銃兵達は精鋭散兵部隊です。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Skirm_French_Voltiguers これらのマスケット銃で武装した散兵は、遮蔽物を使うことに非常に優れており、待ち伏せに便利です。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Skirm_Jager この軽歩兵達は優れた射撃手であり、敵を遠距離から攻撃するのに最適です。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Skirm_Nizam_I_Cedit_Rifles この兵士達は新式の陸軍で、最新の西欧式の装備と訓練を受けています。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Skirm_Norwegian_Ski_Troops この者たちは射撃に優れており、素晴らしい正確さで目標を撃ち抜きます。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Skirm_Portuguese_Tiradores 全員が狙撃兵であり、熟練したきこりでもあるチラドールはポルトガル軍の精鋭ライフル銃兵部隊です。 False
unit_description_texts_description_text_Inf_Skirm_Prussian_Silesian_Schuetzen この兵士たちはライフル銃で武装した精鋭歩兵で、射撃戦を行い、散兵戦に優れています。 False
unit_description_texts_description_text_Mounted_Inf_Ottoman_Mounted_Nizam_I_Cedit マスケット銃と剣で武装したこの兵士達は乗馬下馬問わず戦闘が可能です。 False
unit_description_texts_description_text_Mounted_Inf_Russian_Mounted_Rifles 騎馬ライフル銃兵達には貴族が居ません。彼らは士官を狙撃して敵戦列を混乱させる散兵と狙撃兵です。 False
unit_description_texts_description_text_Mounted_Inf_Spanish_Mounted_Cazadores これらの騎馬軽歩兵は敵の前進を遅らせる助けをし、友軍の戦列を敵の散兵から守ります。 False
unit_description_texts_description_text_Mounted_Inf_Swedish_Mounted_Jager 騎乗散兵としてこの者たちは敵に嫌がらせを行ったり、軍主力の前面に展開することができます。 False
unit_description_texts_description_text_Placeholder Placeholder False
unit_description_texts_description_text_Small_Brig ブリッグは軽武装の2本マストの帆船で、優秀な操舵性と航行能力を持っています。 False
unit_description_texts_description_text_Small_French_Corvette コルベットは小型の戦闘艦で、航海で扱いやすく、少数の9ポンド砲を搭載しています。 False
unit_description_texts_description_text_Small_Galley コルベットは小型の戦闘艦で、航海で扱いやすく、少数の9ポンド砲を搭載しています。 False
unit_description_texts_description_text_Small_Sloop 戦闘用スループはとても操舵性が良い帆船で、少なくとも、より大きな敵艦に少し損害を与えるには十分な火力を持ちます。 False
unit_description_texts_description_text_Special_Bomb_Ketch これは小型の2本マストの沿岸用帆船で、前甲板に巨大な臼砲を1門搭載しています。 False
unit_description_texts_description_text_Special_Rocket_Ship ロケット艦は恐ろしい砲撃で敵の船に火災を起こさせる事ができる、海上砲兵です。 False
unit_description_texts_description_text_Steam_Ship_38 蒸気推進船は風の影響を受けないので、どんな提督にとっても価値ある補助艦艇になります。 False
unit_description_texts_description_text_Steam_Ship_80 蒸気船は帆を持っていますが、蒸気機関を搭載しているので、戦闘では風向きを無視できるという戦術的能力があります。 False
unit_description_texts_description_text_Steam_Ship_British_Ironclad この蒸気船は追加の鉄板で覆われており、すでに強固な木製の船体を装甲しています。 False
unit_description_texts_description_text_Steam_Ship_Frigate 機敏で機動性が高い、このフリゲート艦は、2つの巨大な外輪のおかげで風に向かって航行できます。 False
unit_description_texts_description_text_Trade_Ship_Dhow ダウは伝統的なアラブの船舶で、三角帆を持ちます。武装されていますが、主に商船として扱われます。 False
unit_description_texts_description_text_Trade_Ship_Indiaman インド交易船は武装商船で、ヨーロッパと東方の交易の為に造られています。インド交易船は必要であれば自らを守ることが出来ます。 False
unit_description_texts_description_text_Trade_Ship_Merchantmen 商船は交易用に造られていますが、自衛の為に少数の軽砲を搭載しています。 False
unit_description_texts_long_description_text_2_Decker_50 \n\n戦列艦は戦闘艦隊の根幹です。強靭で、敵艦隊を粉々に粉砕する安定した砲門配列を持っています。50門戦列艦は横帆を持ち、2層甲板で、24と18ポンドの2種類の口径の大砲を搭載しており、重い大砲は下甲板に載せられています。他の2層甲板戦闘艦と比べれば見劣りしますが、近距離での片舷斉射はまだ効果的で、フリゲート艦やより小型の船相手なら最適です。戦闘において50門艦は、より大型の戦艦相手では長くはもたないでしょう。\n\n1750年までに、50門艦はより大型の船相手の戦列戦に耐える船体強度と火力が欠けていることは明らかでした。その大きさにより、アメリカ独立戦争の間に沿岸の浅瀬で任務にあたる為にイギリス製50門艦が新たに建造されましたが、これは例外として、この種の船の戦闘での利点はほとんどなくなっていました。色々な国の海軍省はこれらの小さな戦闘艦を現役から退けるか、強力な敵に遭遇しそうにない重要でない海外の停泊地に送りました。一部は兵員輸送船として生き長らえました。 False
unit_description_texts_long_description_text_2_Decker_64 \n\n64門艦は他の戦列艦よりも幾らか火力が劣りますが、それでもまだかなりの威力の片舷斉射を行える上、より安い費用で建造できます。この船は50門から74門艦の間の踏み石と見なすことができます。50〜門艦よりは高速装填できる、70〜門艦より軽量の大砲を搭載しています。これが良い折衷案であるかどうかで見解が分かれます。\n\n大英帝国海軍は64門艦を、普通は74門艦のための種別の”3等”艦に分類しました。小型ですが、64門艦を支持する人は居ました。ホレーショ・ネルソン艦長のお気に入りの船はニューフォレストのバックラーハードで建造された64門艦、HMSアガメムノンでした。しばしばアガメムノンズと呼ばれた彼の部下の乗組員は、ネルソンの後の乗艦と成功に忠実についていきました。アガメムノンの艦そのものは、アメリカ独立戦争、フランス革命戦争、ナポレオン戦争とそしてトラファルガー海戦で使用されました。32年近くに及んだ過酷な任務の後、南アメリカで座礁しましたが、乗組員は全員難破を生き延びました。 ”卵とベーコン”と、乗組員に呼ばれていたアガメムノンは、その最後の乗組員一人まで見送ったのです。 False
unit_description_texts_long_description_text_2_Decker_74 \n\n74門艦はこの上なく実用的な海上兵器で、防御的強固さと操舵性の間で最高のバランスであると考えられました。2層甲板設計で、下甲板にとても重い32ポンド砲を搭載するのに十分強固でした。これらの重砲は、上甲板の18ポンド砲と組み合わされると、ごく近距離で最も効果的ですが、破壊的な片舷斉射を行えました。\n\nフランス軍は74門艦の着想を18世紀半ばに発展させました。その設計はとても優れていたので、他の海軍は自軍のために模造したり、戦闘でフランス艦を鹵獲する機会を失いました。多くのフランス船は荒波に”さらされた”生材で造られていたので、防水されていました。フランス人は生材が船を元気にすると信じていたので、この効果を得たのです。イギリス軍74門艦も優れていましたが、お金を節約するために木材を再利用するという残念な風潮がありました。虫食いや腐った木と一緒に、古い船から再利用していたのです!最後の74門艦、HMSインプレカブルは1979年についに廃棄されました!フランス軍により1800年に建造され、1805年にトラファルガーでイギリス軍に拿捕され、1842年まで軍務に就いていました。インプレカブルは石炭廃棄船として生涯を終えました。 False
unit_description_texts_long_description_text_2_Decker_80 \n\nこれらの大型2層甲板戦列艦は大抵の2層甲板船よりも多く、そして大型の大砲を搭載できます。32、及び24ポンド砲を搭載していました。これらの強力な大砲は軽砲のように短い時間で装填できませんが、それを発射する砲弾の重量で補います。期待できる最大破壊力をもたらすために、敵が近づくまで砲撃を控えるのが艦長にとって最も有益でした。\n\n歴史的には、2層甲板の”新型”80門艦は成功した設計と考えられました。旧式の3層甲板80門艦は作戦行動では扱いにくいものでした。1758年、フランス軍80門艦フュードロヤントがスペインのカルタヘナを出航したHMSモンマウス(66門、3等艦)と交戦しました。戦闘は4時間にわたって続き、HSMスウィフトシュア(70門、3等艦)が戦闘に参加してやっと決着しました。フュードロヤントは拿捕されました。イギリスに持ち帰ってから、フュードロヤントは改修・修理されました。フランス軍にとってはさらに意外なことに、1782年、HMSフュードロヤントは別のフランス船、ピガースを拿捕しました。この功績により当時の艦長、ジョン・ジャービスはナイトの称号を得ました。 False
unit_description_texts_long_description_text_2_Decker_HMS_Elephant \n\n HMSエレファント号は全ての戦列艦のように手軽な船ではありません。この船は遅く、舵は機敏ではありません。しかしながら良好な航海性能は、この船のように斉射の砲弾投射量に優れ、かつそれに耐えることができる船には敵いません。この要素は特に戦隊の指揮艦、そして恐らくは全艦隊の旗艦となるべくして建造された軍艦には重要な要素です。\n\n 1世紀の歴史を持つハンブル川のハンプシャー造船所で造船されたHMSエレファント号は74門の砲門を持つ軍艦であり、12隻ある3等戦列艦の内の1隻です。エレファント級はサー・トーマス・スレードにより設計され、この時代の多くの船のように個人契約によって書かれた標準化された計画を持ち、この時代にて建造された海上芸術の一角を占めた艦船です。HMSエレファント号はネルソン副提督により彼の戦隊の旗艦にされ、1801年のコペンハーゲンの戦いで活躍しました。この船が持つ浅い喫水線は、停泊した艦隊への攻撃に役立ちました。他のスレードにより設計された船、HMSヴィクトリー号は昇進したネルソン提督を載せ、彼のトラファルガーの戦いでの死を見守り、最終的な勝利に貢献しました。 False
unit_description_texts_long_description_text_3_Decker_106 \n\nこれらの軍艦は最も強力な船舶の類ですが、低速で舵の反応が遅いので航海には不向きです。これは深刻な短所ではありません。なぜなら、32、24、そして18ポンド砲弾を発射する106門の大砲を3層甲板に搭載しており、恐ろしく破壊的な片舷斉射を行うからです。実際にほとんどの陸軍よりも多くの大砲を搭載していたのです!しかしながら、その費用は欠点であり、この船をそれなりの数を建造し維持することができる海軍はほとんどありません。\n\n歴史的には、106門戦列艦はまったく一般的ではありませんでした。海外の停泊地に派遣されることはほぼありませんでした。純粋な戦闘艦であり、綿密な作戦行動で戦うためだけに存在しており、商船の護衛や海上警備、海賊討伐などのありふれた軍務の為ではありません。この種の船は就役すると国の栄光を物理的に表現するものとして豪華に装飾されました。しかし、この習慣は戦争がより激しくなるにつれて減って行き、船をより機能的にするようせざるを得なくなりました。 False
unit_description_texts_long_description_text_3_Decker_86 \n\nこの3層甲板戦闘艦は"1等"戦列艦の火力と74門艦の航行能力を求め、その間で妥協した設計です。多くの妥協案と同じ様に、結果は完璧ではありませんが、追加の片舷斉射重量で低い航行能力を補います。この設計は、一つの予期されていなかった利点を生みました。よく敵の艦長はすぐにこの船が自艦よりもとても大きいと認識して、”優勢な敵”から逃走します!\n\n下層甲板に32ポンド砲を搭載しており、これが"タンブル ホーム"(船べりが外側に湾曲した)船型の理由です。船体の水線付近とその上が膨らんでいるので、下層甲板に大型砲の反動後退のための空間ができます。それほど反動で後退しない軽量の大砲は上の甲板に載せられます。\n\n歴史的には、大英帝国海軍だけが"2等艦"を就役させました。他の国々は代わりに大型の"1等艦"を建造しました。これはおそらく、大きすぎる船では無駄で高くつく任務であった、外国の停泊地で旗艦として活動する大型艦をイギリス海軍が欲したためです。2等艦は頑丈な船体といったような、1等艦の最も好ましい性質を幾らか保っていました。セント・ヴィンセント岬沖海戦で、HMSブレンヘイムはサンティシマ・トリニダードと交戦し、船体に105発被弾しましたが、損害はわずか戦死13名、48名負傷でした。 False
unit_description_texts_long_description_text_3_Decker_British_2nd_Rate \n\nこの3層甲板の軍艦は”2等艦”を改造したもので、追加の大砲を搭載しているので船のバランスが変わっており、その結果操舵性も変わっています。通常の2等艦はどこか動きが鈍いのですが、この船はさらに扱いにくく、舵の反応が悪くなっています。しかしながら、追加火力においての利点は大いに機動性の減少を補っています。\n\n歴史的には、98門艦は単に後甲板に追加の大砲を載せ、他の大砲の大型化しただけで造られました。しかしながら、代わりに通常の”1等艦”を建造することがより好まれたので、元の船をこの型に艤装することを選ぶ国はほとんどありません。ただ大英帝国海軍だけが、海外任務に旗艦として活動する大きな船を必要としたので、悩んでいました。 HMSボイン、HMSユニオンというイギリス王室への忠誠心に重きを置く名前を持つ2隻を含む9隻が、フランス革命戦争中に98門艦に改装されました。 False
unit_description_texts_long_description_text_3_Decker_British_Heavy_1st_Rate \n\n殆どの大型戦列艦と同じく、舷側砲門数が膨大なので、この船は敵から見れば恐ろしいものです。船全体では言うまでもなく、片舷だけで多くの陸軍が誇れる数を上回る数の大砲を搭載しています!このような火力ゆえ、船は重くなり航海で扱いにくくなります。この船は乗せられた船員達にとってはまったく快適ではありません。同様に、この船の高い建造費用と維持費は、同じように重戦列艦を保有する敵にとってもまったく心地よいものではありません。\n\n歴史的には、この特大1等戦列艦と同じくらい大きく、重防御された船は驚くほど維持費がかかり、大人数の船員を必要としました。提督や参謀用の部屋が沢山あったので、よく提督の旗艦として使用されました。旗艦という言い回しは、自分達の存在を示すために独特な三角旗を掲げる将校達の習慣に起源するものです。その旗はかなり大きいことが多かったようです。ハウ提督が大英帝国海軍の艦艇に座乗する際に用いた連合艦隊旗は縦12フィート、横17フィートの大きさでした。 False
unit_description_texts_long_description_text_4_Decker_Spanish_Santissima_Trinidad \n\nしかしながら、サンティシマ・トリニダーはとても扱いにくい獣で、操舵にほとんど反応しません。ですが、これは艦長が指揮できる強大な火力に比べれば二の次です。世界にこの船に敵う船は無く、何とか比較に耐える船も僅かしかありません。\n\n1769年にハバナで建造されたサンティシマ・トリニダーはスペイン海軍の誇りでした。当時の建艦技術の粋を結した船でしたが、とても時代遅れの設計思想で建造されていました。ほとんどの海軍技術者達は大きさや火力よりも、全体の機能性が重要であることに気付き始めていました。しかし、この船は強力な片舷斉射がただ一つの関心事であった時代に逆戻りしていました。多くの経験を積んだスペイン海軍士官達にとって、サンティシマ・トリニダーの強さは防御にあるということは明らかでしたが、これは無視され、トラファルガー海戦(1805年)に艦隊と一緒に投入されました。サンティシマ・トリニダーはイギリス海軍の激しい砲撃により帆を失い、HMSネプチューンにより艦の自由を奪われ、砲撃不能になり、遂に降伏に追い込まれました。不幸にも、戦いの後の嵐でサンティシマ・トリニダーは海に沈んでしまいました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Art_Fix_Ottoman_Bombardment_Mortars \n\n知らない者から見れば、迫撃砲は重い木枠に角度をつけて据え付けられた大きくずんぐりした鍋に見えます。実際に、この兵器の名前は香辛料を挽くために使用されたすり鉢(mortar)への類似性から由来しているのでしょう。迫撃砲は曲射射撃を用い、着発弾と生石灰弾を敵陣に落下するように空高く発射します。\n\n榴弾砲とは違って、迫撃砲は一定量に決められた、比較的少量の装薬を砲弾をを飛ばすために用います。射程は砲撃角度を変えることで調節され、精度は風と天候次第です。また射角が垂直に近いと照準できないので、迫撃砲の砲撃には事実上の最小射程があります。迫撃砲を扱う砲手達は高速移動する騎兵に対してとても脆弱です。\n\n近代的迫撃砲が広範囲に普及したのは第一次大戦の塹壕戦のお陰です。イギリスのストークス塹壕迫撃砲が元になっている現在の設計には多くのサイズがあります。大抵の迫撃砲は近接信管が付いた砲弾を対人弾として発射できます。大型のものは自分を目標に向かって誘導する、洗練された"賢い"砲弾を発射できます。 False
unit_description_texts_long_description_text_Art_Fix_Rocket_Troop \n\nこれ等の兵士達が用いたロケット弾は、 火薬を推進燃料として鉄のチューブにつめたものです。 大規模に一斉射撃すれば、騒音だけでも驚く程で、敵の士気に悪影響を与えます。 一つ一つのロケット弾は角度をつけた発射台に載せられ、 砲手はロケット弾が敵の真ん中に落下するように正しく発射角度を決めました。 また、ロケット弾はその長い尾部により不正確になるので、 砲手は風も考慮に入れなければなりません。 固定砲という特性上、特に高速で移動する騎兵の攻撃に対してとても脆弱です。\n\n歴史的には、ヨーロッパ人にロケット砲撃を知らしめたのは マイソールのティープー・スルタンによって使用されたインド製の戦闘用ロケット砲でした。 イギリス軍はこれらの兵器をコングレーブ・ロケット砲として複製し、 陸上と同じように船にも載せて使用しました。 ロケット砲兵は1815年のナポレオン最後の敗北となったワーテルローの戦いに 参加していましたが、彼らの有効性に対する評価はまちまちです。 コングレーブロケット砲兵は戦場を明るく照らすための照明弾さえも携行していたのです! False
unit_description_texts_long_description_text_Art_Foot_12_lber \n\nその名前にも関わらず、歩兵砲は馬によって牽引されますが、 砲手たちは馬に乗らずに大砲の脇を行進します。 大砲には実体弾か葡萄弾を装填出来たので、遠距離でも近距離でも効果的でした。 葡萄弾は大砲を巨大なショットガンに変えます。 砲兵は他の兵種より移動が遅く、もし置いて行かれて無防備になると、 騎兵からの攻撃に脆弱になります。 将軍にとって敵の砲兵を無力化することは常に高い優先順位を持つものであり、 砲手達は自らの防御の為に最も初歩的な剣術技能しか持っていません。\n\n18世紀末までに、設計の改良により大砲とその野戦砲車の重量は劇的に軽くなり、 行軍態勢から攻撃態勢への移行にかかる時間も短くなっていました。 正確に砲身を砲車の中心に置くことにより、バランスと操作性は格段に良くなりました。 ナポレオンは砲兵隊出身で、彼の敵戦列の狭い範囲に対する砲兵の集中使用は、 多くの国々に砲兵部隊の拡張を余儀なくさせました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Art_Foot_7_lber_Howitzer \n\n榴弾砲は直射砲と迫撃砲や他の主力砲兵のどこか中間に位置するものでした。 直射砲のように、ゆっくりかもしれませんが、移動できました。目標に向かって 真っ直ぐ射撃するのではなく、砲弾を目標に突っ込む様に空高く撃ち上げます。 榴弾砲は装薬量や射角を多様に変化させることが出来たので、ほとんど垂直に 壁を飛び越える砲弾を撃ち上げることができます。 この様な能力があるので、敵が密集している地帯を砲撃するには最適です。 近距離戦では、直接敵陣に何百ものマスケット銃弾で敵を吹き飛ばす葡萄弾を発射できます。\n\n歴史的には、照準は不正確で、着弾しても必ずしも敵に損害を 与えるわけではなかったのですが、弾道学は不完全理解の学問ではありませんでした。 不規則な風で砲弾はコースをそれることがありました。 信管はまだ砲弾が砲身の中にある間に点火されなければならず、 導線の長さは砲弾の飛翔時間に合う様に決定されました。 導線が短すぎると、砲弾は空中で炸裂しますし、 長すぎると、砲弾が爆発する前に敵が信管を抜き取ってしまうことが出来たでしょう! False
unit_description_texts_long_description_text_Art_Foot_Experimental_Howitzer \n\n榴弾砲は直射砲と迫撃砲や他の主力砲兵のどこか中間に位置するものでした。 直射砲のように、ゆっくりかもしれませんが、移動できました。目標に向かって 真っ直ぐ射撃するのではなく、砲弾を目標に突っ込む様に空高く撃ち上げます。 榴弾砲は装薬量や射角を多様に変化させることが出来たので、ほとんど垂直に 壁を飛び越える砲弾を撃ち上げることができます。 この様な能力があるので、敵が密集している地帯を砲撃するには最適です。 近距離戦では、直接敵陣に何百ものマスケット銃弾で敵を吹き飛ばす葡萄弾を発射できます。 またこれらの試作型砲兵は敵の建造物を攻撃するカーカス弾や 腐食性の薬品で敵兵を毒殺する生石灰弾を射撃できました。\n\n歴史的には、照準は不正確で、着弾しても必ずしも敵に損害を 与えるわけではなかったのですが、弾道学は不完全理解の学問ではありませんでした。 不規則な風で砲弾はコースをそれることがありました。 信管はまだ砲弾が砲身の中にある間に点火されなければならず、 導線の長さは砲弾の飛翔時間に合う様に決定されました。 導線が短すぎると、砲弾は空中で炸裂しますし、 長すぎると、砲弾が爆発する前に敵が信管を抜き取ってしまうことが出来たでしょう! False
unit_description_texts_long_description_text_Art_Foot_French_Artillerie_a_Pied \n\nこの精鋭部隊は正確で致命的ですが、高速移動する騎兵や接近戦に脆弱であるという 弱点があります。これらの大砲を扱う砲兵達は剣も装備していますが、 自分たちを効果的に防御できるように訓練されていません。 その力は大砲にあり、彼らを前線から目立たない距離に置くのが賢明です。\n\n1808年に組織された徒歩砲兵隊は6個中隊の砲兵と1個中隊の橋梁工兵から成っていました。 橋梁工兵は仮橋を建造することに責任を負い、 砲兵は迅速かつ安全に射撃位置に移動できました。 工兵と砲兵の間で、誰が部隊の指揮をとるのかで幾らか議論がありましたが、 結局砲兵が指揮官として適任であると決定されました。 橋梁工兵はたった7時間で、60〜80個の浮橋用ボートから成る、およそ500フィート もしくは150メートル長の仮橋を建造できました。また彼らは補給が少ない場合は、 手に入るあらゆる物を使って橋を作ることで知られていました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Art_Foot_Grand_Battery_Convention \n\n通常の二倍の砲数を持つ大砲兵大隊は、非常に強力な部隊です。その砲は長大な射程を持ち絶大な殺傷力を持ちます。しかし、彼らは配置されていない時であろうとも、機動力が低いため騎兵に対して脆弱です。砲手は剣でしか武装しておらず、白兵戦の訓練はほとんど受けていません。白兵は彼らの仕事ではありません。大砲を提供する事が彼ら唯一の義務です。\n\nこの大砲兵大隊はナポレオン・ボナパルトのキャリアの転機点となりました。彼は彼の技量により准総長へと昇進しました。訓練砲術練習生として、彼は戦闘において実際に殺傷力を発揮するのはマスケット銃やサーベルではなく、重砲であるとを知っていました。大砲兵大隊のアイデアは彼の後の戦いの多くで使用されました。それは強固な敵の戦列の一点に火力を集中することにより、その防御に穴をあけることを意図していました。壮大な大砲兵大隊が作り出すことができる砲弾の嵐に対しては、生身で立ちはだかることは極めて困難でした。これに対する最良の防御は、逆勾配を使用し、丘の背面に展開し、砲撃に耐えることでした。 False
unit_description_texts_long_description_text_Art_Foot_Italian_Guard_Foot_Artillery \n\nこの精鋭砲兵部隊は敵を荒廃と混沌の渦へと引き込むことができます。この砲兵の砲撃は非常に正確ですが、動きの速い騎兵と白兵攻撃に対して脆弱です。これらの大砲を操る兵士達が白兵戦に長時間持ちこたえる事を期待するべきではありません。彼らは戦士ではなく、砲手なのですから。彼らの力はその大砲にあり、乱戦が起こらない、安全な位置に配置するべきでしょう。\n\n歴史的には、フランス砲兵の成功ははジャン=バティスト・ヴァキュエッテ・デ・グリヴェバルによるものが大きいです。判官の息子である彼は、志願兵としてフランス王立砲兵に入隊しましたが、すぐに出世の階段を上ることになりました。彼は中将およびセントルイス軍司令になりましたが、1765年に宮廷の好意を受けることが出来ず、除隊され、1776年に第一砲兵査察官の任を得るまで軍務から外されました。この期間に彼はフランスの大砲生産に一連の革命的改革を起こしました。標準化されたコンポーネントの彼のグリヴェバル・システムは、米国を含む他の国でも採択されました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Art_Foot_Russian_10_lber_Unicorn \n\n伝統的に砲身に刻印されていたユニコーンにちなんで名づけられたこの印象的な砲兵は、 素晴らしく長い射程を持ち、広範囲にわたる種類の砲弾を発射できます。 ユニコーン砲は榴弾砲と直射砲が合わさった砲兵です。 ユニコーン砲の砲手達は、専門的に大砲の射撃を訓練された優秀な砲手達ですが、 白兵戦で効果的な防御に必要な能力を欠いています。 しかしながら、戦場でのユニコーン砲の火力と多芸さはこの弱点を補って余りあります。\n\n最初のユニコーン砲は、イワン雷帝(1547−84)の治世に経歴を始めたロシア人大砲鋳物師の アンドリュー・クックロフによって鋳造されました。 彼は沢山のロシア軍の最も有名な大砲の製作を監督し、 その中には巨大な”ツァーリ・プーシュカ”、もしくはツァーリ・キャノンも含まれていました。 この傑作はツァーリ・フェオードルの勅命で造られ、なんと38トンも重量がありました。 ツァーリ・キャノンは元々は木製の砲架に載せられていましたが、 それは後に1812年のナポレオンのモスクワ攻撃の間に破壊されました。 現在ツァーリ・キャノンはクレムリンで、世界最大ですが、 一度も鳴らされたことのない”ツァーリ・ベル”の隣に鎮座しています。 False
unit_description_texts_long_description_text_Art_Horse_6_lber \n\n騎兵砲兵によって使用された大砲は、他の砲兵に比べると射程と火力で劣っていました。 しかし、騎兵砲兵はスピードがすべて!であったのでこれは重要視されませんでした。 騎兵砲兵は迅速に大砲を射撃地点に移動し、展開し、撤収することができました。 彼らは支援が必要な場所に移動し、攻撃して敵の攻勢をくじくことができます。 彼らはどんな将軍にも歓迎される戦術予備兵力であり、敵戦列の弱点につけこむ手段です。\n\n歴史的には、フリードリヒ大王は最も小口径な砲兵でさえ、敵の防衛陣を崩し、 敵を砲撃後に続く歩兵攻撃に無防備にするには十分であると見て取りました。 彼は単なる大口径砲弾よりも、スピードと機動力が重要であるという結論に至りました。 これにより彼は、”ギャロップ”(騎兵用語で馬の駆け足を意味する)の速さで 牽引できる軽砲と6ポンド砲の拡充を命令しました。 フリードリヒの戦術に対する貢献は、ナポレオン自身も認め、 フリードリヒ大王を戦術の達人と賞しました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Art_Horse_French_Artillerie_a_Cheval \n\n騎馬砲兵部隊においては、砲手である全員が乗馬して戦いに向かいます。 グループの中で馬方が先頭の馬に乗り、砲手は砲車に乗ります。 騎馬砲兵は移動速度と火力の間で良いバランスを持っています。 砲手達は高度に経験を積み、訓練されており、大砲について詳細な知識を持っているので、 遠距離から正確で破壊的な砲撃を行うことができます。\n\n歴史的には、これらの兵士達と大砲はナポレオンの皇帝親衛隊の一部で、 皇帝から最高であるとみなされていました。 とても経験を積んだ者か非常に優秀なものだけが入れたので、皇帝親衛隊への入隊は 極端に難しく、親衛砲兵はヨーロッパで最高の砲手であると自慢できました。 騎馬砲兵師団は精鋭の中の精鋭で、全てで最高の物を手にしていました。 1815年に相応しい馬の補給が少なくなると、ナポレオンは彼の最愛の騎馬砲兵に 馬を揃えるため、擲弾騎兵に乗馬をやめる様命令しました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Art_Horse_Italian_Guard_Horse_Artillery \n\n全ての騎馬砲兵は戦いへ乗馬して出向きます。そのため彼らは敵の脅威に対し直ちに対抗でき、また再配置することが可能です。近衛砲兵は優れた砲手であり、素晴らしい騎手です。彼ら素早く配置に着くことができ、放つ砲火は凄惨なものです。\n\n歴史的には、近衛騎馬砲兵はフランス軍の甘美な一点であるナポレオンの親衛隊内の一連隊でした。親衛隊は実質的に軍隊内の軍隊であり、老親衛隊、壮年親衛隊という二つのナポレオン配下の熟練した兵士達によって構成された部隊で成り立っていました。入隊は非常に困難で、最上の者のみが入隊を許可されたため、彼らはヨーロッパで最高の砲手であることを誇ることができました。これらの精鋭部隊は他のフランス軍部隊よりも上位に置かれ、より良い服装、食品や武装などといった特定の権限を得ました。彼らはまた戦場の内外両方で、ナポレオンの世話をしました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_British_Dragoon_Guards \n\n近衛竜騎兵は馬上でも徒歩でも戦うよう訓練されています。 彼らはサーベルと騎兵用マスケット銃を装備していますが、下馬しなければ射撃できません。 彼らは少し衝動的気質なので、他のより訓練された騎兵に劣りますが、 柔軟性と接近戦における能力はとても価値のあるものです。 戦場で戦略的要所に彼らを解き放つことにより、 簡単に全く準備ができていない敵を出し抜くことができます。\n\n竜騎兵は同等の真正騎兵ではなく、成り上がりの歩兵なので、 ”正しい”騎兵連隊の兵士達から下級部隊と見なされがちでした。 彼らは馬上で戦う必要がなかったので、良質の馬を特に必要としませんでした。 それにより、彼らは正規騎兵よりも召集費用と給料が安く上がりました。 イギリス軍において、”近衛竜騎兵”の称号は”真正”騎兵部隊が 竜騎兵に再組織された時に、隊員達の面子を保つ手段として用いられました。 より低い部類の部隊に格下げされたにも関わらず、 彼らは少しの精鋭騎兵気質を持ち続けました。 イギリス軍はまだ近衛竜騎兵部隊を保有しており、 現在彼らは偵察や警備任務を軽戦車を用いて行っています。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_British_Horse_Guards \n\n突撃衝撃力で敵を崩壊させるのが重騎兵の任務です。単純に言えば、 近衛騎兵には敵本隊の隊列を重量とスピードで持って突き崩すことが期待されます。 彼らは追撃用ではありません。追撃はより速く、軽装備の騎兵戦力の仕事です。 その代わり、彼らは敵を突破して完全に混乱させることを狙って、 密集した敵に短距離で体当たりをする強烈な破城槌です。 英国王室近衛部隊の一員であるおかげで、 これらの騎兵達は騎兵突撃という残忍な任務にも品格を与えられています!\n\n歴史的には、ロンドンの王室近衛騎兵パレードは”軍旗敬礼分列式”、 17世紀までさかのぼる習慣のために用意されていました。 戦場で連隊旗は集結地点にあったので、戦闘中に連隊旗が識別されるように、 予め兵士達に見せられたのです。 現在、この式典は統治している専制君主の公式な誕生日を祝うために行われています。 この文章を書いている現在、エリザベス女王は毎年この式典に出席し、 パレード終わりに敬礼を受けています。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_British_Horse_Guards_Uxbridge \n\nこの司令官はその存在だけで、最も過酷な状況においてさえ戦いに疲れた兵士達を戦い続けるように鼓舞するには十分です。部下の兵士達から尊敬と敬愛を集める将軍は価値ある存在であり、大切に扱われるべきです。将軍を守るためだけではなく、冷静さを維持して決定的な勝利を得るために必要な決定をさせるために、彼を激戦から遠ざけておくのが賢明です。\n\nヘンリー・パジェット、アックスブリッジ伯、後のアングルシー侯爵は1815年のワーテルロー戦役においてウェリントンの騎兵指揮官を努めました。これは両者にとって納得のできるものではありませんでした。というのも、ヘンリーはウェリントンの一番下の弟の妻と不倫し駆け落ちをしたからです。この社交上の問題はヘンリーの騎兵指揮官として、輝かしい軍事的キャリアに傷をつけました。しかしヘンリーが勇敢で、熟練した指揮官であることについて誰も疑問に思いません。ただ、恥知らずで下劣なだけです。また、彼はワーテルローにおいてウェリントンとの会話中に足を撃ち落された人物でもありました。彼らの乾いた会話「神の名において、サー、私は足を失いました。」「神の名において、サー、貴方は失いました。」にウェリントンの作り笑いが伴っていたかは記録に残されていません。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_British_KGL_Dragoons \n\n乗馬すれば、これらの兵士達は接近戦でとても重い剣を振り回したり、 強力な突撃で敵戦列を崩壊させることができます。 馬に乗って敵の行動に素早く対応し、包囲されている味方に火力支援を行えます。 しかし、騎兵用マスケット銃を撃つ前には下馬しなければなりません。 彼らはしばしば指揮官によって厳しく感情を押さえ込まれる必要がありました。 なぜなら、彼らの戦闘への熱望は、向こう見ずになるかもしれないからです。\n\n1807年、デンマークはイギリス軍への海上支援を拒否しました。 イギリスは、自国としては、デンマークがフランスを支援するかもしれないと恐れたので、 王立ドイツ人部隊の一部がデンマークに送られました。 コペンハーゲンへの道中、第1王立ドイツ人竜騎兵連隊はフリードリヒスベルクの砦に 兵器庫があることを知りました。わずか1個騎兵大隊しか持っていなかったのにも関わらず、 竜騎兵部隊の指揮官クラウヘンベルグ大尉は砦に降伏を求める文書を送りました。 彼は1万人の軍隊が進軍中であると主張しました。彼の誇大な嘘は功を奏し、 王立ドイツ人部隊竜騎兵は驚くほど沢山の敵の銃と弾薬を確保しましたが、 日の出とともに彼らの本当の数がばれてしまいました! しかしもうその時には、無力なデンマーク軍にとって手遅れになっていました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_British_Life_Guards \n\nライフガーズは戦闘能力と同じように見かけを重要視される精鋭王室連隊でした。 これは彼らの兵士としての能力の重要性を下げるものではありません。 彼らは力強い突撃で敵戦列の最も整った部隊を崩壊させることができ、 戦闘における彼らの能力はほとんど比類ないものです。 しかしながら、彼らは自分達の誇りで少しせっかちになるかもしれません。 彼らは他の騎兵部隊が持っている統制を欠いており、全ての騎兵同様、 方陣を組んだ歩兵に対しては非効果的です。\n\n歴史的には、色々な王室近衛騎兵連隊が、 奇妙にも”近衛騎馬擲弾兵”と名づけられているのは変に思えるかもしれません。 馬がどのコンパスの方角にも走らない!とでもならない限り、 もはや彼らは手榴弾を投げたりしないであろうことは、常識として分かりそうなものでした。 イギリス軍において、騎馬擲弾兵を含む王室騎兵連隊には軍曹が居ませんでしたし、 今も居ません。代わりに”騎兵伍長”が居るのです。 ”軍曹”(sergeant)は”使用人”(servant)と同じ語源を持ち、紳士ではないのです。 兵卒も同じように、紳士ではなく、永遠の使用人です。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_British_Royal_Scots_Greys \n\n「グレイ」の男たちは各自、フリントロックカービン銃、そして白兵戦時、馬上から振るう事ができる標準的な英国重騎兵の剣である「殺肉屋の乗馬剣」で武装しています。すべてのスコットランド人と同様に、彼らは自らの事をこの世界で最高の兵士であると確信しており、悪魔のように戦うことができるでしょう。これは本当にそうなのかもしれません。ですが、より規律があり、衝動が抑えられた精鋭騎兵なら彼等を倒す事ができるでしょう。\n\n正確には第二王立北ブリテン竜騎兵連隊と呼ばれるこのスコッツ・グレイ連隊は、英国軍で最も古い竜騎兵連隊の1つでした。「北ブリテン」という用語は、イングランドとスコットランドで結ばれた連合法、そして、ジャコバイトの反乱の頓挫の後に「スコットランド」の代わりに官界で好まれました。しかし、スコッツ・グレイ(スコットランドの灰色)の名は何れにしても使われ続けました。すべての兵士が灰色の騎馬を持つことで区別された彼らは、アックスブリッジの輝かしい第二騎兵旅団(Union Brigade)の一部として働き、ワーテルローにおいてはフランスの中央部隊に対し、すばらしい重騎兵突撃の成功を成し遂げ、第2竜騎兵連隊は不朽の名声を勝ち取りました。第2竜騎兵連隊所属のチャールズ・エワート軍曹が、戦闘中に敵の軍旗を奪ったのです。しかしながら、英国重騎兵は組織として統制される事がなく、戦いの残りで「壊滅」しました。エリザベス・バトラー婦人の手によって描かれた"Scotland Forever"(スコットランドよ永遠なれ!)は、そのすべての栄光を賭けた突撃を描き、これまで制作された愛国的な芸術の最高傑作のひとつとなっています。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_Carabiniers \n\nカラビニエは敵を敗走させるために必要な最後の一撃を放つ事が出来ます。彼らの唯一の弱点は良く訓練された方陣を組む事の出来る精鋭歩兵です。精鋭と方陣のコンビネーションは、速度の遅いカラビニエには致命的となりえます。重騎兵である彼らの仕事は敵の追撃ではなく、これらは軽騎兵に任せられるべきです。フランス革命後、多くの王室部隊は解体され、カラビエニも同じ様な運命を辿る可能性が大いにありました。\n\nかの部隊の伝統と尊敬を守る試みの中で、コンテ・デ・パラデル大佐が議会に存続を訴えるために送られました。投票の結果、新しいフランス騎兵部隊の創立が決断されました。カラビニエは存続が決定されましたが、その名は「Grenadiers des troupes a cheval(騎馬擲弾兵)」へとかわり、彼らの金にて装飾された帽子は皮製になりました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_Cuirassiers \n\n重く、真っ直ぐな剣を装備し、鎧を着ている胸甲騎兵は近接騎兵です。 もし胸甲騎兵が敵の中に飛び込むことができれば、彼らは凄まじい活躍をすることができ、 胸甲と重い兜により戦闘中幾らか防御手段があります。 彼らは敵の歩兵から本当に恐れられており、 敬意をもって彼らを扱わない他の騎兵部隊は愚かです。 この堂々とした強さに対する対価は速さです。 胸甲騎兵は素早く、高速な騎兵からは程遠いです。 彼らはヘビー級の殺し屋なのです。\n\n多くの点で、胸甲騎兵は古い戦闘スタイルに立ち返っています。 火器の使用の普及により鎧がその価値よりも扱いにくいものとなるまで、 常に騎兵は鎧をまとっていました。 しかしながら、その見かけの壮大さは戦場での彼らの価値を高めました。 彼らの”ミネルバ”型の兜はそこに巨大な部隊が居るという印象を単純に高めました。 意図された効果は敵を怖がらせることでしたが、それはうまくいきました。 胸甲騎兵はいつも大きな馬に乗った大きな兵士で、 どんな弱い敵に対しても突撃衝撃力を用いるようによく訓練されていました。 フランス軍は戦闘装備としての胸甲を1915年にようやく廃止しました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_Dragoons \n\n竜騎兵の強さはその用途の広さにあります。 騎乗し壮観な突撃を行ったり、戦場で火力が必要な決定点に乗馬で移動できます。 下馬すれば、白兵戦を行ったり先込め式マスケット銃で敵を攻撃できます。 また、この柔軟性は彼らの最大の弱点でもあります。 他の騎兵に比べて移動が遅く、重騎兵や精鋭歩兵相手では苦戦するでしょう。\n\n歴史的には、最初の竜騎兵部隊は戦場に乗馬で移動して 徒歩で戦う様に訓練された歩兵でした。 騎兵部隊に馬を当てるのは非常に費用がかかるので、 いつも馬は”本当の”騎兵のためにとっておくのが最善でした。 竜騎兵に残りの馬をあてがうのは、安く、動きの鈍い軍馬を有効利用するためでした。 竜騎兵は他と同じように、ゆっくりと騎兵へと変わって行き、 騎乗歩兵として戦うことをやめてしまいましたが、連隊に竜騎兵の名前は残りました。 ”昔ながら”の騎兵はいつも竜騎兵を社会的に低く見てきており、 歩兵は竜騎兵が正しい歩兵になりきらないので憤慨していました。 なので、竜騎兵達は自分たちを本格騎兵と見なす新しい認識を歓迎しました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_French_Carabiniers \n\nカラビニエは、もはや彼らの名の起源である騎兵銃(カービン、フランス語読みでカラビニエ) を必ずしも装備しているわけではなかったのですが、敵から尊敬され、 それと同量の恐怖も与えていました。 彼らは射撃能力よりも、真っ直ぐで重い剣使って、敵を掻き分け、突き崩し、 四散させる強力な突撃を用います。彼らの馬は騎兵用の馬の中では最も低速なので、 予備騎兵として使うよりも計画的な攻撃での使用に最適です。\n\n歴史的には、カラビニエ騎兵は王党派の起源でしたが、他の王室部隊とは違い、 フランス革命の間に解隊されることを免れ、 代わりにフランス軍で新しく再編成された騎兵部隊に職を得ました。 それにもかかわらず、カラビニエ騎兵にははまだ一部王党派支持者がおり、 たびたび革命政府と衝突しました。ナポレオンが権力を得ると、 彼はカラビニエ騎兵達の忠誠を得るために彼らに”名誉の軍隊”という称号を与えました。 これは成功しました。18089年にオーストリア軍との戦闘でカラビニエ騎兵の損害が 大きくなると、ナポレオンは彼らの制服を改定し、胸甲と兜を装備させました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_French_Cuirassiers_Murat \n\nこの将軍とその部隊は、ただその白兵戦での残忍さだけで、軍で華麗な名声を共有しています。 \n\nこの部隊はヨアヒム・ミュラに率いられた大きな馬に乗った大きな兵士達です。 彼らは胸甲と補強された兜を接近戦での防御として身に着けており、凄まじい力でもって敵に突撃することができます。 彼らは恐ろしい殺傷能力を発揮する、重く真っ直ぐな剣を装備しています。 賢い指揮官はミュラの部隊を敵戦列に穴をあける破城槌として用います。 ヨアヒム・ミュラは1815年に銃殺されました。 彼は目隠しを拒絶し、いつも戦いで見せていたのと同じ勇気を持って死に直面しました。 初期の軍歴で、彼はヴァンデミエール13日の戦闘で、砲兵を制圧して王党派を撃退し、ナポレオンを感嘆させました。 彼はナポリとシシリーの王とされ、功績に報われました。 戦いでは勇敢でしたが、ナポレオンは、ミュラは決断力がなく、知性が乏しいことを恐れていました。 この予感は当たり、ミュラはナポレオンに背きましたが、失敗し、また彼に取り入ろうとしました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_French_Cuirassiers_Ney \n\n\n\n大きな馬に騎乗したこれらの大男達は、ミシェル・ネイ将軍に指揮され、その主な任務は、敵軍へ突進し、白兵戦にて敵と交戦するです。この任務のため彼らは「胸甲」、背中と胸を守る甲冑を革の胸当ての上に着こみ、また表面硬化処理が成された金属製の兜をかぶっています。彼らは重い直刀を携えています。賢明な司令官は、重要な戦局にて敵を打つ槌として胸甲騎兵の力を使用します。 \n\n1799年、元公務員のミシェル・ネイはユサールとして彼のキャリアを始めました。そして同年、彼の才能は彼を瞬く間に師団長へと昇進させました。彼はすぐにナポレオンの一翼を担い、大陸軍の第6軍団の指揮権を与えられました。ネイはその後も手柄を立て続け、そしてロシア戦役による活躍にて彼の勇気は広く知れ渡りました。第3軍団を率いる彼とその配下の兵は敵によって殲滅されたと考えられました。ですが、ネイはロシア戦線を何とか切り開き、ナポレオンの元へと帰還したのです。この事によりネイはナポレオンをして「勇者の中の勇者」だと言わしめました。しかし、1815年のワーテルローでの彼の勇敢ながら愚かな突撃が、残りの戦いの為に温存されて然るべきフランス騎兵をも壊滅させてしまいました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_French_Grenadiers_a_Cheval \n\n擲弾騎兵は最も大きく強靭な軍馬に乗っています。 比較的低速ですが、敵の中に突撃すればほぼ確実に手痛い損害を与えます。 接近戦になっても、擲弾騎兵は十分強靭なので殺戮を続けることができます。 歩兵の方陣に突撃したり、良く訓練された精鋭歩兵相手に戦うのは厄介ですが、 それでも、彼らは攻撃時に見せる同じ決意でもって死を受け入れます。\n\n現代から見ると、擲弾騎兵という発想はかなり奇妙に見えます。 最初の手榴弾の炸裂で馬が確実にパニックになってしまったのでは? 他のすべての擲弾兵同様、擲弾騎兵は肉体的な質で選ばれた大きな兵士達でした。 擲弾兵と認められるには、体格が良く、幾つかの戦いを経験し、 勇猛さを表彰されていなければなりませんでした。 大きな黒い馬に乗り、黒毛皮高帽を被っていたので、彼らの存在は恐ろしく、 仲間のフランス軍兵士達から”巨人”や”神”とあだ名されていました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_Garde_du_Corp \n\n未使用テキスト。このテキストが出現した場合、JTWにご連絡を False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_Italian_Guards_of_Honour \n\nこれらの兵士は優秀な白兵部隊であり、サーベルを抜き、戦場へと急行します。彼ら唯一の弱みは、方陣を組んだよく訓練された精鋭歩兵に直面した時です、この組み合わせは鈍重な重騎兵には致命的となります。儀杖兵は力のために速さを犠牲にしているので、敵を追撃する事を期待してはなりません。彼らは鉄槌、敵戦場から敵を駆逐する強打として使用されるべきです。敵陣を粉砕する鉄槌として。\n\nロシアでの彼の悲惨な戦役後、ナポレオンは祖国へ帰還し、彼の大陸軍の再編成について思案しました。騎兵部隊は非常に高価なものでしたが、ナポレオンはフランスの予算をも犠牲にして一万の精鋭騎兵を募兵しました。彼は貴族やブルジョワ等の、自分の馬、武装、軍服を提供することが期待できた人々から徴兵しました。その見返りとして12ヶ月軍務完了後、彼らは副中尉の階級を保障されされていました。この報酬は、脱走が上流階級の甘やかされて子供たちの間で蔓延していたので、非常に重要でした。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_Life_Guards_of_Horse \n\n保護されていない歩兵部隊への突撃は近くの仲間にとって励みとなる光景であり、敵にとっては最悪の光景となるでしょう。初めの突撃で敵を動揺させたのち、この部隊は不運にも突撃から生き残った敵に対し、重い直剣による近接戦闘を行います。強力なものの、彼らは精鋭歩兵や方陣を組んだ歩兵に対し不利な立場にあります。\n\n歴史的には、フランスは騎馬民族ではないにもかかわらず、フランス軍の騎兵はナポレオン戦争中最高の騎兵と考えられていました。フランス騎兵の強さの秘訣は組織と連隊の厳格な規律にありました。戦場においてフランス軍は失馬の可能性を危惧し、換えの馬を用意していました。連隊は十分に訓練され、戦場で必要なときに陣形変更や戦略的再配置を期待できました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_Ottoman_Silahtar_Guard \n\nこれらの精鋭騎兵はスルタンの個人的な護衛部隊で、兵士達全員が非常に勇敢で士気が高いです。トルコ人にとって、軍務は重荷ではなく、名誉であり男達は喜んで応ずるべきものです。最高の名誉はスルタンの護衛を任されるシラター近衛部隊のものです。必要とされれば、これらの兵士達はスルタンの為に自らの命を捧げます。このような自己犠牲には鉄の決意が必要なので、シラターは戦闘で簡単には動揺しません。彼らは槍で武装しており、破壊的な突撃で敵戦列を突き破ることに非常に優れています。\n\n18世紀終わりまでに、オスマン帝国は、まだ効果的な軍隊を保有していたとはいえ、かつての力は持っていませんでした。オスマン帝国軍は財源不足で、多くの兵士達は他の職を探す為に軍を離れました。これは特に騎兵について顕著でした。古い封建制のシルターの多くは消滅してしまっており、シラター近衛部隊でさえ大きく減少していました。近代化の必要性に気づいたスルタン・セリム3世(1789-1807)は西洋の戦列を手本にしてオスマン帝国軍を改革しようと試みました。不幸なことに、イェニチェリ達はセリム3世の改革に激しく抵抗し、遂には彼を殺害しました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_Ottoman_Siphai_Cavalry \n\nこれらの極上の騎兵達は素晴らしい突撃を行い、高い士気のおかげで信頼でき勇敢です。シパーヒーは不動の忠誠心を持ち、精鋭の地位に値します。最高の馬に乗っている彼らは、突撃時に使用すると致命的な飾り立てた槍を装備しています。敵の側面や背後に送り込めば、度々彼らの突撃は戦いで決定的なものになります。彼らは重い槍を装備しているので長時間の白兵戦や、よく訓練された戦列歩兵相手では脆弱です。\n\n封建制度の領主とほとんど同じように、シパーヒーは軍務と引き換えで分配された領地からの収入を認められており、多数の兵士達を供給することが期待されていました。彼らは多くの騎兵部隊に一般的な高い地位を享受し、訓練されたシパーヒーは度々規則に従わないイェニチェリ達より自分達を上位に見ていました。この二つの軍団の対立は、時々憎悪をくすぶらせながら、なんとか抑えられていました。対立の一因となっていた要素のひとつは、シパーヒーが全員トルコ民族である一方、イェニチェリ達は子供のときに田舎のキリスト教徒達から徴集されて、イスラム教に改宗されていたことでした。このようなつまらない問題にもかかわらず、シパーヒーはスルタンが用いることができる最良の騎兵を象徴していました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_Prussian_Cuirassiers \n\n胸甲騎兵の主な任務は敵軍の中に突進し、接近戦を行うことです。 他国の胸甲騎兵と違い、プロイセン軍胸甲騎兵は胸甲を防御として身に着けることを恥とし、 代わりに戦闘に勝利するために彼らの重く真っ直ぐで硬い刃持つ剣を頼りにしました。 それにもかかわらず、彼らはその名を保っています。 配下に胸甲騎兵部隊を持つ賢い指揮官は、彼らを敵の致命点を突くための破城槌として用い、 あまり早く投入したり、より優勢で動揺していない部隊に対して使用することには慎重です。\n\n歴史的には、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は1790年に胸甲騎兵に胸甲を着用することを 禁ずるという命令を出しました。 すでに幾つかの連隊は3年早く彼らの重い装甲板を廃止していましたが、 この命令はすべての連隊に胸甲の着用を禁じるものでした。 胸甲の禁止は胸甲を着用して良いと再び許される1814年〜1815年まで残りました。 その胸甲は主にフランス軍から鹵獲したものでした。 胸甲騎兵はまだ現代の軍隊にも存在しますが、今は彼らの胸甲は完全に儀礼用です。 フランス軍はまだ2個連隊の胸甲騎兵を保有しています。 イタリアは大統領名誉護衛隊を持ち、正式には、イギリス軍の王室警護騎兵も胸甲騎兵です。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_Republican_Horse_Guards \n\n未使用テキスト。このテキストが出現した場合、JTWにご連絡を False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_Russian_Chevalier_Garde \n\n親衛騎兵は、ツァーリの護衛に責任を負うロシア皇帝親衛騎兵の上位部隊です。 最も経験を積んだ兵士達だけがこの最も尊敬される部隊への入隊できるので、 彼らは接近戦と馬術の達人です。 真っ直ぐで重い騎兵用の剣で武装しており、胸甲で防護されている彼らは 尊敬されるべき兵力です。 しかしながら、重騎兵なので、彼らは軽騎兵にはほとんどついていけません。\n\n1800年、既存の親衛騎兵部隊を再編成して、ロシア軍親衛騎兵連隊は ツァーリ・パーヴェルによって組織されました。 彼らは儀仗用連隊でしたが、1800年の後、親衛騎兵部隊は活動中の野戦部隊にもなりました。 パーヴェルは統治本能の赴く限りにおいて、この見かけ上は平等主義者的公正さで 自分の護衛部隊が実際に戦闘に用いられることを望んでいました。 他に彼が実行した改革には、ロシアでの全ての個人的な印刷出版の禁止と、 ”社会”、”革命”そして”市民”という言葉の使用禁止がありました。 思想について書いたり話したりできなければ、その思想は消えてしまうでしょう・・・ False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_Russian_Lifeguard_Horse \n\n王室近衛騎兵達はロシア軍皇帝親衛隊の一員です。 戦場で彼らを目にすることはとても恐ろしいことです。 接近戦では、彼らは騎兵用の真っ直ぐて重い剣を巧みに使い、 敵の攻撃を着用している胸甲で防御できます。 彼らの乗馬は低速ですがとても強靭なので敵歩兵を強力な騎兵突撃で突き崩し怯えさせます。\n\n1800年、軍の再編成によりツァーリの王室近衛騎兵は幾つかの異なる連隊に分割されました。 それらは近衛騎兵連隊、王室近衛ユサール騎兵連隊、王室近衛コサック騎兵連隊、 そして中で最も上位の親衛騎兵連隊でした。 王室近衛騎兵は1805年のアウステリッツの戦いで初めて対ナポレオン戦に参加しましたが、 ナポレオンの皇帝親衛隊の騎兵に撃退されてしまいました。 アウステリッツでのナポレオンの勝利は第三次対仏大同盟を効果的に崩壊させ、 それによってヨーロッパでの政治が変わりました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Heavy_Spanish_Guardias_da_Corp \n\n未使用テキスト。このテキストが出現した場合、JTWにご連絡を False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Lancer_Austrian_Ulans \n\n全ての槍騎兵同様、彼らに衝突の最初の瞬間に際立った利点をもたらすのは彼らの武器です。 突撃してくる槍騎兵部隊は、彼らの怒りの的の敵兵士達にとってはとても恐ろしいです。 しかしながら、槍は白兵戦ではやや扱いにくい武器なので、接近戦を続けるよりも、 撤退して再編成し、再び突撃するべきです。全ての突撃騎兵と同じように、十分に考えずに、 準備のできた敵や方陣を組んだ精鋭歩兵相手への攻撃に投入されるべきではありません。\n\nオーストリアは昔のポーランド州を征服した結果、槍騎兵連隊を創設することを決断しました。 ポーランド州でのポーランド人動員可能兵力は利用すべきであり、 ポーランド人は熟練した槍騎兵と見なされていました。 最初の槍騎兵部隊が組織されたのは皇帝ヨセフ2世(1741−90)の命令によってでしたが、 最初の正式な槍騎兵連隊が創設されたのは彼の跡継ぎのレオポルトの治世においてでした。 ポーランドは槍騎兵連隊を保有する長い伝統を持っており、 オーストリアはこの経験を最大限に活用しました。 ウーランは明らかにポーランド式に武装、着飾り、訓練されていました。 部隊の横列も縦列も、ほとんど全てポーランド語を話す兵士達が占めていました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Lancer_French_7th_Lancers \n\n槍はおそらく最も古い騎兵用武器でしょう。 槍を使えば、突撃時に使い手は自分と馬の体重をとても鋭い一点に載せることができます。 熟練兵の手にかかれば、その一点で人を貫くことができます。 それゆえ、槍騎兵と対面することは恐ろしいですが、 もし標的を殺せなければ、槍騎兵は脆弱になります。 槍は剣よりも接近戦で扱いづらいので、槍騎兵は不利になるのです。 これは方陣を組むことができる良く訓練された歩兵に対しても同じです。\n\n歴史的には、多くの国が槍騎兵を使用しました。 ナポレオンはポーランド人槍騎兵さえ彼の皇帝親衛隊の一部として召集しました。 驚くことに、それぞれの騎兵連隊の種類ごとに、 使用される戦術の為に特に設計された馬具を必要としました。 槍騎兵の鞍はブナ材から作られ、黒革で覆われて鉄製のバンドで補強されていました。 彼らの鞍は、ピストルを入れるホルスターと、武器と騎手の下半身を保護するための 厚い羊皮を必要とした、より精巧な竜騎兵の鞍とは違っていました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Lancer_Lancers \n\n槍は最も古い騎兵用武器の部類に入るでしょう。槍を使えば、突撃する際に使い手は自分と馬の全体重をとても鋭い一点に載せることができます。槍は、熟練した者が使えば、どんな敵でも貫くことができます。これが馬の速さと合わされば、槍騎兵の突撃はとても恐ろしいものになります。しかしながら、もし標的を殺りそこねたら、槍騎兵は脆弱になります。長い槍は接近戦において剣より使いづらく、特に方陣を組むことができるよく訓練された歩兵相手では、接近戦が始まってしまうと槍騎兵は不利になります。\n\n歴史的には、多くの国が槍騎兵を運用しました。フランス軍はかなり熱意をもって槍騎兵を採用し、ナポレオンはポーランド人槍騎兵さえも彼の皇帝親衛隊に加えました。インドでは槍は長い間武器として使われ続けていました。槍術はよく"ペギング"(釘止め)、テントのペグを槍の先を使って地面から抜く訓練、または"ピッグ-スティッキング"(豚突き)、野生の豚や野生の犬さえも槍で駆る訓練で磨かれました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Lancer_Prussian_Brandenburg_Uhlans \n\nランデンブルク・ウーランはとても幸運なことに、 一部の隊員がヨーロッパで最も経験を積んだ騎兵に数えられていました。 これらの兵士達は素晴らしい騎兵で、包囲された友軍に駆けつけたり、敗走している 敵部隊を蹴散らすために自らの軍馬から息をのむような行動速度を引き出すことができます。 しかしながら、もし長時間の接近戦をしてしまうと、彼らはすぐに大損害を被るでしょう。 彼らは機動作戦をする余地のある、短時間で素早い攻撃を行うのに最適です。\n\n歴史的には、プロイセン軍のフレデリック・フォン・シル少佐が後に ランデンブルク・ウーランとなる部隊の最初の指揮官でした。 連隊名を変更するようにフリードリヒ2世に進言したのは彼でした。 シルは新しくできるヴェストファーレン州は反乱にはうってつけであると決め込み、 ナポレオンに対して挙兵するという愚かな決定をしました。 この反乱はすぐに鎮圧され、シルは自らの愚かさに最悪の対価を払いました。 彼は斬首され、体は無名墓地に投げ込まれ、頭はヴェストファーレン州の支配者の ジェローム・ボナパルトに記念品として送られました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Lancer_Prussian_Towarczys \n\nトヴァルチェス槍騎兵は、プロイセン軍の中でも類を見ない部隊です。彼等は駿足にして自信により作られた高い士気を持っているのです。全速力で攻撃するよう訓練された彼等と、その彼等によって使われる槍は、白兵戦の最初の瞬間にその強みを発揮します。これは無防備な敵や、損耗した敵を打ち破るには十分でしょう。しかし、全ての槍騎兵と同様、彼等は長期感の白兵戦に適しているとは言えず、乱戦に留まらせるよりは退却し、再集結されるべきですまた、方陣を組んで待ち構えている歩兵へと彼らを突っ込ませるのは愚かな指揮官ぐらいなものでしょう。\n\nもともと、これらの部隊はプロイセン軍の指揮下で働くボスニア人によって編成されていましたが、1800年以降、プロイセンによって征服されたポーランドの領土から募兵される兵に置換えられました。戦争の変化にも関わらず、彼らは1808年にウーランが編成されるまで唯一の軽槍騎兵隊でした。連隊はポーランドの伝統的な貴族が務める騎兵指揮官の名前である「トヴァルチェス」、同行者の意、を名前として採用しました。そもそも、これらの人は、従者と共に入隊し、給与と特権は彼等の個人的な主の懐の深さに完全に依存していました。トヴァルチェスはプロイセン軍の第3師団の一員として1807年のアイラウの戦いに参加しました。そして、この小さな軍隊は1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いでの惨敗後、プロイセン軍に残された唯一の軍隊でした。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Lancer_Russian_Cossack_Cavalry \n\nコサック騎兵は貴族がいませんが、ロシア大地で尊敬されています。 彼らの突撃に耐えられる兵士はほとんど居ないので、彼らは打撃部隊として素晴らしいです。 よくあることでですが、彼らの戦場に向かう勇気と熱意はある程度無謀さを露呈します。 規律が無いので盲目的に困難に突っ込んでしまうかもしれないので、白兵戦で特に弱いです。\n\n歴史的には、ロシアと他の東方の西洋人達はコサック族と曖昧な関係がありました。 彼らの戦士としての文化と自由奔放な生き方に対して賞賛がありましたが、 彼らの野蛮さについてある程度の警戒もありました。 彼らは他の兵士達が持っている規律を欠き、飲酒をかなり好んでいました。 しかし、ナポレオンの大陸軍を撃破する助けとなったのは彼らの絶え間ない奇襲攻撃でした。 彼らの名声は敵を恐怖させ、コサック族が戦争を大声で布告する前でさえ、 多くの戦いに勝利しました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Light_Austrian_1st_Hussars \n\n他の軽騎兵同様、ユサールはスピードと”突進力”、 そして敵に対してエリート意識を持っています。 第1ユサール隊は、例外なく見事な騎兵達で、全員がある種の独立意識を持っており、 広く散らばった敵を追撃するのに理想的です。 彼らは湾曲したサーベルで武装しており、突撃は強力ですが、 方陣を組んだ歩兵や重騎兵部隊に対すると弱いです。\n\nオーストリアは”ハスザロク”と呼ばれるマジャル人騎兵部隊を、 はるか昔の15世紀半ばに組織しました。彼らはハンガリーとクロアチアの王で、 オーストリア大公であったマティアス・コルヴィヌスのために勇敢に戦いましたが、 正規のユサール連隊が組織されたのは1680年代になってからでした。 ハンガリー人ユサールはオーストリア軍でその有用性を証明したので、 すぐに他の国々は自軍にその思想とユサールを模倣しました。 多くの軍は熱心に騎兵へのファッション哲学としてユサールの制服を採用しました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Light_Austrian_Hungarian_Hussars \n\n他の軽騎兵同様、ユサールはスピードと”突進力”、 そして敵に対してエリート意識を持っています。 ハンガリー人ユサールは例外なく、マジャル人部隊としての名に恥じず素晴らしい騎手です。 彼らの部隊組織の起源は、風評によれば山賊と盗賊から召集された非正規部隊なので、 独立意識があり、散兵を追撃したり砲兵部隊に対処するのに理想的です。 彼らは湾曲した剣を装備しており、突撃は効果的ですが、 方陣を組んだ歩兵相手では依然として弱いです。\n\n歴史的には、オーストリアは”ハスザロク”と呼ばれるマジャル人騎兵部隊を、 はるか昔の15世紀半ばに組織しました。彼らはハンガリーとクロアチアの王で、 オーストリア大公であったマティアス・コルヴィヌスのために勇敢に戦いましたが、 正規のユサール連隊が組織されたのは1680年代になってからでした。 ハンガリー人ユサールはオーストリア軍でその有用性を証明したので、 すぐに他の国々は自軍にその思想とユサールを模倣しました。 多くの軍は熱心に騎兵へのファッション哲学としてユサールの制服を採用しました。 一部の軍ではユサールの制服はもっと派手に誇張されて行き、 挑発的にとてもきつい乗馬用半ズボンを短くしてさらにはしたなくなりました! False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Light_Bedouin_Camel_Warriors \n\n砂漠は男を強靭で無慈悲にするか、殺します。弱き者は生き残ることが出来ず、この獰猛な生き方は誇り高く危険な戦士を作り出します。彼らの戦闘技術は長年の乗駱経験と羊泥棒、そしてオアシスの人々との戦闘により鍛えられました。戦場で駱駝の匂いは兵を怯えさせ、それは駱駝戦士へヨーロッパ式騎兵に対する優位を与えます。しかし彼らがヨーロッパの精鋭歩兵と相対する事にならば、彼らの弱点は露見し扱いづらい駱駝は良い標的となるでしょう。\n\n元々ベドウィンはアラビア語の「ベド」、砂漠の住人という単語に起源を持ちました。ベドウィンは最も危険な砂漠の民の一つで、敵がいない場合内紛を行いました。彼らは家畜のために新しい牧草地を求め常に移動しています。これは彼らに最低限の物資と自然の恵みを元に生きる事を学ばせました。砂漠で男が生きるには、部族と一族への忠誠が命をつなぐ糧でした。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Light_British_15th_Hussars \n\n他の軽騎兵と同じように、ユサール騎兵はスピード、”突進力” そして敵に対してエリート意識を持っています。 第15ユサール隊は熟練の騎兵達から成り、接近戦と突撃において致命的です。 彼らはそのスピードにより、散兵を追撃したり砲兵部隊を対処するのに理想的です。 彼らは湾曲したサーベルを装備しており、突撃は強力ですが、 方陣を組んだ歩兵や重騎兵部隊相手では依然として不利です。\n\n第15ユサール隊は、ヨーロッパでユサール騎兵連隊が流行ると軽竜騎兵連隊から ユサール騎兵連隊に変えられました。ジョージ・アウグストゥス・エリオット大佐は ”エリオット軽騎兵”軽竜騎兵連隊を設立しました。 一年も経たないうちに連隊は684人の規模にまでになり、海外任務を命ぜられました。 彼らはエムスドーフの戦いでイギリス軍連隊に与えられたそれまでで最初の 戦闘勲章を得ました。ついに、連隊は第15ユサール隊となりました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Light_British_KGL_Light_Dragoons \n\n高速移動し高度に熟練した軽竜騎兵は便利で多目的です。 騎兵用マスケット銃を使用するためには下馬する必要がありますが、 彼らの真の能力は馬術にあります。戦場における柔軟性により、 彼らは砲兵と散兵に対して使用するのに理想的です。 しかしながら、もしよく訓練された歩兵の方陣と対戦してしまうと、 彼らの弱さはすぐにあらわになるでしょう。\n\n歴史的には、王立ドイツ人軍団の竜騎兵と軽竜騎兵は、 南イギリス海岸のウェイマウスに騎馬砲兵2個大隊と一緒に駐屯していました。 国王ジョージ3世はよく兵舎を訪れ、兵士達は王の特別なお気に入りでした。 彼は教練を見渡しながら兵士達の中を歩き、彼らとドイツの故郷について話したり、 冗談を言い合ったりしました。 視察の間、彼は竜騎兵の制服を着たりもしました。 この王立ドイツ人軍団の兵士達を視察する習慣は、 ジョージ3世で終わりにはなりませんでした。 当時のイギリス皇太子と他の王室一族はこの伝統を将来に向けて続けました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Light_French_5e_Hussards \n\nこれらのアメリカ独立戦争の熟練兵達は、苦闘して得た戦闘経験を持っています。彼らは軽装備で高速なので、戦場で最も必要とされる場所に素早く到達し、湾曲したサーベルで敵を斬り倒します。スピードでもって過剰な砲火を受ける前に敵に接近できるので、特に砲兵と散兵のような部隊に対して効果的です。彼らの軍馬は強さではなくスピードでもって選ばれているので、より重装備の騎兵部隊や方陣を組んだ戦列歩兵はユサール騎兵に勝ります。\n\n第5ユサール騎兵連隊はその根源を、1778年に組織され、アメリカ独立戦争中に活動したロザン連隊に持っています。連隊はヨークタウンの戦いで有名なイギリス軍指揮官バナストレ・タールトンに率いられた軽騎兵部隊を蹴散らし、勇猛さと確固たる決意で評判を得ました。ロザン連隊は1793年に改名され第5ユサール騎兵連隊となり、1815年1月についに解隊されるまで、ナポレオン戦争の幾つかの重要な戦いに参加しました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Light_French_Chasseurs_a_Cheval \n\n他の多くの騎兵部隊は好んで公認の軍帽の下に鉄製の兜をかぶっていましたが、 これらの軽騎兵達はそれさえも着用しません。 猟騎兵は剣と騎兵用マスケット銃、ピストルを持っていましたが、 敵本隊に突撃することは期待されず、単に敵を遠距離から攻撃して追跡するだけです。 これにより彼らは散兵と砲兵に対して効果的です。 彼らの馬は持久力が高く高速で、適切に面倒を見られていました。 馬なくしては騎兵は何も出来ないのです。 彼らはより重装備の騎兵や、よく訓練された歩兵の方陣と対戦すると脆弱です。\n\n歴史的には、猟騎兵はナポレオンにより”無敵”という堂々としたニックネームを与えられました。 この連隊の兵士達はGuides-a-chevalというイタリア戦役の時に ナポレオンの司令部を守るために創られた連隊出身の熟練兵です。 猟兵はナポレオンの個人護衛部隊として活動を続け、どこへでも彼について行きました。 この部隊とその兵士達に対するナポレオンの敬意は深く、 彼は定期的に彼らの堂々とした緑色の通常軍装を着て公共の場に現れました。 この愛着は彼の劇場感覚にも合うもので、彼の一般兵士との親しみ易さを強調しました。 False
unit_description_texts_long_description_text_Cav_Light_Hussars \n\nこれらの見事な騎兵達は主力軍を守る覆いとしして、 または敵の位置を確認するための戦略的偵察に使うことが出来ます。 ユサールは速く移動できるので、散兵と砲兵を狙うには理想的です。 もしユサールが差し向けられれば、彼らにはほぼ逃げる機会がありません。 ユサールは湾曲したサーベルで武装しており、接近戦や突撃で立派に振舞えますが、 訓練された歩兵や重騎兵相手ではうまく戦えません。\n\n歴史的には、すべての国のユサールは、ハンガリー人起源の放浪癖を好み、 主力軍から出来る限り独立して行動しました。 それにより長距離警備行動や偵察に送り出すことができて便利でしたが、 少し略奪を行う可能性がありました。 彼らはハイカラな制服を着て全速力で戦場に向かいました。 彼らの制服は戦闘において着られた物の中で最も派手な部類でした。 しかしながら、ユサールの尊大さは実力に良く値するものでした。 1806年、500騎のフランス軍ユサールはシュチェチンの強力な6000人のプロシア駐屯軍を 脅して砦を明け渡させました。 False