77年春の勢力図。
一時期は京都と目と鼻の先にある丹波まで迫った島津だが、
筒井・畠山・徳川の連合軍の反撃と大内家の反乱により中国地方の領土を守る力はもう無い。
武田が伊達に侵攻。
東北方面軍はこの時羽後を攻めていたため、近くに居た槍侍一部隊しか援軍に送れなかった。
女武士の奮戦むなしく、城は落城し伊達滅亡。
78年夏。畠山・筒井軍が播磨へ侵攻中の久垣軍へ攻撃。
畠山軍は倒したものの、槍足軽を全て失った状態では筒井軍に勝つのは不可能と考え撤退。
・・・したのだが、援軍の筒井軍が追撃してきた。
鉄砲とカノン砲で奮戦したものの敗北。
久垣死亡。
大名は江村さんが継いだ。
78年冬。武田・最上連合の圧倒的な兵力の前に東北方面軍は全滅した。
79年夏。土佐でついに大聖堂が完成。
各建物の最上級のものを最初に建てた氏族はボーナスが得られる。
79年冬。島津家が裏切り、長宗我部に宣戦布告。
が、このときのために相良家を九州に残して置いたのである。
相良と協力して肥前の九州方面軍で島津を攻める。
肥前の部隊を船で薩摩まで運びそこから攻撃。
結果は大敗であった。
ラファエル司祭のライバル、ランク6忍者兼氏が再び登場。
80年夏。
敵の数に対抗するためこちらも土佐、備前、肥前の3地域をフル稼動で徴兵し続ける。
結果77年春の時に比べ2倍の兵力を保持することができた。
薩摩攻めでの失敗や、徳川の奇襲攻撃で何度か敗北したものの、数の暴力でAI連合軍を倒し薩摩、安芸、播磨の3地域を手に入れた。
83年春。再編成した肥前の部隊2000を船に乗せ薩摩→大隅→日向と攻め落とし島津を滅ぼした。
島津の主力は相良との戦いで失われたらしく、二度目の攻撃は難なく成功した。
今川、大内、武田、筒井、畠山の侵攻部隊を倒し、中国地方の攻略に成功。